石川県珠洲市:能登半島の最先端で歴史と自然が織りなす魅力

石川県珠洲市は、能登半島(能登地方)の先端に位置し、日本海に面した風光明媚な街です。豊かな自然と歴史、そして独特の文化が調和し、近年では芸術や食文化でも注目を集めています。

能登半島の最果ての地、珠洲市

珠洲市は、石川県の北東部に位置し、能登半島を構成する3つのエリア(輪島市、鳳珠郡能登町、珠洲市)の中で最も東端に位置する市です。面積は247.20平方キロメートル、人口は約10,923人(2024年7月1日現在)と、本州にある市の中では最も人口が少ない街として知られています。

珠洲市の歴史

珠洲市は古くから、豊かな自然に恵まれ、人々が暮らしてきた歴史があります。

古代

  • 崇神天皇の時代(紀元前97年 – 紀元前29年):須須神社が創建されたと伝えられています。
  • 713年(和銅6年)の「平城京出土木簡」に「珠洲郡」の名が初めて登場します。
  • 718年(養老2年):能登国が成立し、珠洲郡には若倭(わかやま)、日置、草見、大足(おおまめ)、余戸(あまるべ)の5つの郷が置かれました。
  • 733年(天平5年)の「出雲国風土記」には、珠洲市を含む能登半島の先端が、島根県の先端(旧美保関町)へと引き伸ばされたという「国引き神話」が記されています。
  • 742年(天平13年):越中国に編入されます。
  • 748年(天平20年):大伴家持が能登巡行を行い、珠洲を訪れ、万葉集に珠洲の海に関する歌が詠まれています。
  • 757年(天平宝字元年):能登国が復活します。
  • 859年(貞観元年):渤海國入覲使・孝愼ら104人が珠洲郡に来着しました。

中世

  • 平安時代に入ると荘園開発が進み、12世紀半ばには能登最大級の荘園である摂関家九条家領の若山荘が成立しました。
  • 12世紀後半頃から15世紀末頃には、珠洲焼という陶磁器が栄えました。
  • 室町時代には、能登守護畠山氏の代官請負(守護請)となり、守護代・遊佐氏が管理を行うようになります。
  • 1506年(永正3年):全国各地で一向衆が蜂起する中で、能登でも一揆が起き、珠洲市には「鈴の三崎の鬼次郎」と呼ばれる人物がいました。
  • 1576年(天正4年):上杉謙信が能登に侵攻します。
  • 1581年(天正9年):前田利家、能登一国を与えられます。

江戸

  • 前田氏の治世下で、珠洲郡は金沢藩の支配下に置かれ、塩の生産が盛んに行われました。
  • 1627年(寛永4年):奥両郡算用場が飯田に置かれ、能登奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の年貢・塩の算用を担うようになります。
  • 1729年(享保14年)と1833年(天保4年)には、地震と津波による被害を受けました。

明治・大正

  • 1871年(明治4年):廃藩置県と同時に、従来の十村役が郷長に改められ、翌年には大区小区制が実施されました。
  • 1883年(明治16年):禄剛埼灯台が設置されました。
  • 1899年(明治22年):市制及び町村制が施行され、珠洲郡80か村が1町19か村に統合されました。

昭和

  • 1954年(昭和29年):珠洲郡宝立町、飯田町、正院町、上戸村、若山村、直村、蛸島村、三崎村、西海村が合併し、珠洲市が誕生しました。
  • 1964年(昭和39年):国鉄能登線が開通し、珠洲市は鉄道網に接続されました。
  • 1968年(昭和43年):能登半島国定公園に指定されました。
  • 1975年(昭和50年):木ノ浦海岸が海中公園に指定されました。
  • 1982年(昭和57年):飯田港と他の港を結ぶカーフェリーと高速艇が就航しました。
  • 1983年(昭和58年):日本海中部地震による津波の被害を受けました。
  • 1986年(昭和61年):珠洲市議会で原発誘致を議決しました。
  • 1988年(昭和63年):JR西日本能登線が第3セクター移管・のと鉄道開業。

平成

  • 1989年(平成元年):関西電力が高屋地区での原発立地可能性調査を開始、住民による反対運動が活発化しました。
  • 1993年(平成5年):能登半島沖地震が発生し、珠洲市に大きな被害が出ました。
  • 1996年(平成8年):第16回全国豊かな海づくり大会が開催されました。
  • 1997年(平成9年):ナホトカ号重油流出事故により珠洲市沿岸も被災しました。
  • 2003年(平成15年):珠洲原子力発電所の計画が凍結されました。
  • 2005年(平成17年):のと鉄道能登線が廃止されました。
  • 2007年(平成19年):平成19年能登半島地震が発生し、珠洲市にも被害が出ました。
  • 2009年(平成21年):奥能登のあえのこと(能登の伝統芸能)がユネスコの無形文化遺産に登録されました。
  • 2011年(平成23年):能登の里山里海が国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産に認定されました。
  • 2014年(平成26年):大谷道路が全線開通しました。

令和

  • 2021年(令和3年):奥能登国際芸術祭2020+が開催されました。
  • 2022年(令和4年):能登半島地震の前震で震度6弱を観測。翌日、余震と見られる地震で震度5強を観測。
  • 2023年(令和5年):奥能登地震(能登半島地震の前震)で震度6強を観測。同日21時58分頃に余震と見られる地震で震度5強を観測。見附島の一部の法面が崩落。
  • 2024年(令和6年):能登半島地震の本震で震度6強を観測。4mを超える津波が押し寄せ、多数の家屋が全壊するなど壊滅的な被害が出た。

珠洲市の魅力

珠洲市は、豊かな自然、歴史、文化、そして人々の温かさなど、多くの魅力にあふれた街です。

自然

  • 見附島(軍艦島):珠洲市のシンボル的存在で、周囲の海に浮かぶ奇岩です。
  • 珠洲岬:能登半島の最先端にある岬で、雄大な日本海の景色を一望できます。
  • 禄剛崎:日本の渚百選にも選ばれた海岸で、禄剛埼灯台が建っています。
  • 鉢ヶ崎海岸:白い砂浜と青い海のコントラストが美しい海岸です。
  • 垂水の滝:高さ約20mの滝で、逆さ滝としても有名です。

歴史と文化

  • 須須神社:珠洲市の氏神様で、古くから信仰を集めてきた神社です。
  • 黒丸家住宅:国の重要文化財に指定された江戸時代の豪農の住宅です。
  • 珠洲焼:中世に栄えた珠洲市の伝統的な陶器です。
  • 揚げ浜式塩田:古来から伝わる伝統的な製塩方法で、現在も一部地域で行われています。

  • 能登牛:珠洲市を含む能登地方で飼育されるブランド牛です。
  • 珠洲焼:珠洲焼の土で作られた器に盛り付けられた料理も、風情があります。
  • 天然塩:揚げ浜式塩田で作られた、ミネラル豊富な塩です。

芸術

  • 奥能登国際芸術祭:3年に一度開催される現代美術の祭典で、珠洲市も会場の一つとなっています。
  • 珠洲市陶芸センター:珠洲焼の伝統を受け継ぐ陶芸家たちが集う施設です。

まとめ

珠洲市は、豊かな自然と歴史、そして独特の文化が調和した魅力的な街です。自然の中に佇む歴史的建造物や、伝統を守り続ける人々の温かさを感じることができます。また、近年では芸術や食文化でも注目を集め、新たな魅力を生み出しています。ぜひ、珠洲市を訪れて、その魅力を体感してみてください。

珠洲市についてのクイズ

珠洲市は能登半島のどの部分に位置していますか?

珠洲市は能登半島の最も東端に位置しています。能登半島は石川県の北東部にあり、珠洲市はその先端に位置する市で、周囲は日本海に面しています。珠洲市は面積247.20平方キロメートル、人口約10,923人(2024年7月1日現在)と、日本本州にある市の中でも最も人口が少ないとされています。この位置性は、珠洲市が独自の自然環境や文化、歴史を育む要因にもなっています。特に日本海の美しい景色を眺めることができ、訪れる人々に豊かな自然体験を提供しています。また、珠洲市は観光面においても多くの魅力を持っており、自然だけでなく文化的景観や伝統工芸も楽しむことができます。

平安時代に珠洲市の荘園開発が進んだのはどの家の領地ですか?

珠洲市の荘園開発が進んだのは、平安時代中期から末期にかけて、摂関家九条家領の若山荘が成立したためです。この時期、平安時代の荘園経済が発展し、社会的地位の高い豪族や貴族が土地を所有し、農業を行っていました。珠洲市はその地理的条件と自然資源に恵まれ、荘園が形成されることで、地域の人々の生活を支える重要な基盤となりました。また、珠洲焼や伝統的な製塩方法など、後の文化的成長にも寄与しました。こうした歴史的背景は、珠洲市が現在でも多様な文化を持つ要因となっており、訪れる人々にはその深い魅力を感じてもらうことができます。

珠洲市で製塩が盛んだった時代はいつからですか?

珠洲市では、江戸時代を通じて塩の生産が盛んに行われていました。この時期、前田氏の治世下で珠洲郡は金沢藩の支配下に置かれ、塩の生産活動が地域の重要な産業として発展していきました。特に揚げ浜式塩田という伝統的な製塩方法が導入され、今でも一部地域ではその技術が受け継がれています。この技術は、自然を利用した持続可能な方法として評価されており、珠洲市の食文化にも影響を与えています。珠洲市では、江戸時代の文化や伝統が現代まで息づいており、今もなお観光名所として多くの人々に親しまれています。