かつて日本の最北端に位置し、広大な面積を誇った北海道択捉郡留別村。しかし、現在はロシアによって占領・実効支配され、日本の施政権は及んでいない。本稿では、留別村の歴史、地理、文化、そして失われた人々の暮らしについて深く掘り下げ、この忘れられた村の物語を紐解く。
1. 日本最北の村、留別村
留別村は、北海道根室振興局択捉郡に属する村であり、日本の最北端に位置していた。面積は1,442.82km2で、日本の村の中で最も広く、面積でいえば東京都とほぼ同等である。しかし、現在ではロシア連邦が占領・実効支配しており、法令上のみ存在する村となっている。
1.1. 留別村の由来
村名はアイヌ語の「ル・ペッ(道・川)」に由来し、かつてこの地を流れる川を指していたと考えられる。
2. 択捉島の南西部に位置する豊かな自然
留別村は択捉島の南西部、島のほぼ半分を占める広大な地域に位置している。国後水道を挟んで国後島の安渡移矢岬とは約20kmの距離である。
2.1. 平野と湖沼に恵まれた地形
地勢は平野部が多く、湖沼も発達している。萌消湾(萌消カルデラ)や単冠湾といった天然の良港に恵まれ、漁業の中心地として発展してきた。また、ベルタルベ山(活火山、1,221m)や阿登佐岳(活火山、1,209m)などの山々がそびえ立ち、豊かな自然に囲まれた土地である。
2.2. 留別村の主な地形
- 山: 西単冠山 (1,629m)、ベルタルベ山、阿登佐岳、恩根登山 (1,422m)、跡佐登岳、六甲山、焼山
- 河川: 留別川、得茂別川(ウルモンベツ川、ベニザケ繁殖地の南限)
- 湖沼: 得茂別湖(うるもんべつこ、5.80km2)、年萌湖(としもいこ、4.36km2)、ヤンケトウ沼、内保沼、キモン沼、ラウス沼
2.3. 村内の地名
留別村は、以下の大字に分けられる。
大字 留別村
- 留別
- カシコモイ
- 年萌
- ヤンケトウ
- 瀬石温泉
大字 振別村
- 振別
- 天寧
- トマカラウス
- 豊浜
- カンケカラウス
大字 老門村
- 老門
- トリカモイ(鳥神威)
- アルトル
- マトロ
- 具谷
大字 内保村
* 内保 * アシリコイトイヒラ * マンマエ * 神居古丹 * 宇多須都 * 野塚 | * セイノツ * カバリ磯 * 入里節 * マタルザル * カリラウス | * 十五夜萌 * メナトイ * ウルモンベツ(得茂別) * イラミザル * 六甲 |
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大字 丹根萌村
- 丹根萌
- ビョーノツ
- リヤウシ
- ベルタルベ
3. 繁栄と苦難の歴史
留別村の歴史は、豊かな自然とそこに暮らす人々の営みによって紡がれてきた。しかし、第二次世界大戦後のソ連占領によって、人々は故郷を奪われ、悲劇的な運命を辿ることになった。
3.1. 留別村成立以前の歴史
- 1869年(明治2年)8月15日:北海道11国が置かれ、翌年紗那郡留別村が成立する。
- 1870年(明治3年):択捉郡丹根萌村(たんねもい)、内保村(ないぼ)、振別郡振別村(ふれべつ)、老門村(おいと)が成立する。
3.2. 合併前の各村における発展
- 1880年(明治13年):留別に漁業会社(汪綱社)が設立される。
- 1884年(明治17年):紗那村、振別村、蘂取村に戸長役場がおかれる。
- 1885年(明治18年):留別に小学校が開設される。
- 1886年(明治19年):振別外四ケ村戸長役場が留別に移転し、留別外四ケ村戸長役場と改称する。
- 1889年(明治22年):留別で商店が開業する。
- 1897年(明治30年):内保に小学校が開設する。
- 1902年(明治35年):年萠に小学校が開設する。
- 1920年(大正9年):根室蘂取線の建設が認定され、幹線道路の整備がはじまる。
3.3. 留別村の成立と発展
- 1923年(大正12年)4月1日:択捉郡丹根萌村、内保村、振別郡振別村、老門村と合併し、択捉郡留別村が成立する。
- 1932年(昭和7年):択捉阿登佐岳が噴火する。
3.4. 戦争とソ連占領
- 1945年(昭和20年)8月28日:留別湾にソ連軍が上陸する。
- 1946年(昭和21年)2月1日:ソビエト連邦政府が領有を宣言する。
- 1947年(昭和22年)10月:住民が強制送還でサハリンへ送られる。
3.5. 悲劇と記憶
- 1970年(昭和45年):単冠湾に緊急入域した日本の漁船が流氷に閉じ込められて遭難。死者18人以上。
- 1990年(平成2年):元居住者が留別墓地に墓参する。
4. 失われた暮らしと文化
留別村は、豊かな自然と漁業、採藻業、畜産業など、多様な産業が盛んに行われていた。人々は、厳しい自然環境の中で、独自の文化を育んできた。
4.1. 漁業と採藻業
島の北西岸(西前)は漁業、南東岸(東前)は採藻業が盛んであった。冷蔵装置を積んだ冷蔵船が沿岸を巡回し、定置網の漁獲を回収して根室へ出荷された。
- 漁業: マス、サケ、タラ、マグロ
- 採藻業: コンブ、千島海苔
4.2. その他の産業
- 畜産業: 馬、牛の放牧
- 捕鯨
- 缶詰製造工場
- 製紙工場
- 製材所
- 造船所
4.3. 教育と医療
- 学校: 留別国民学校高等科、年萌小学校、内保小学校、神居古丹小学校、具谷小学校、天寧小学校、入里節小学校、天寧小学校豊浜分校
- 病院: 留別病院、内保診療所
4.4. 交通
- 道路: 準地方費道85号線根室蘂取線
- 船舶: 留別港、年萠港、内保港、入里節港、具谷港、植内港
4.5. 文化と宗教
- 墓地: 留別墓地、年萌墓地、新天寧墓地、旧天寧墓地、豊浜墓地、具谷墓地、入里節墓地、振別墓地
- 寺社: 留別神社、内保神社、巌島神社、年萌神社、昭和神社、具谷神社、北海千光寺、法蔵寺、法蔵寺曹洞宗入里節説教所
- 温泉: 瀬石温泉
5. 留別村の未来
現在、留別村はロシア連邦によって占領・実効支配されている。しかし、かつてそこに暮らしていた人々、そして日本政府は、領土問題の解決と、失われた故郷への帰還を望んでいる。
5.1. 領土問題の解決
留別村を含む北方領土は、第二次世界大戦後、ソ連によって占領され、現在もロシア連邦によって実効支配されている。日本政府は、領土問題の平和的な解決を目指し、交渉を続けている。
5.2. 故郷への思い
かつて留別村で暮らしていた人々は、故郷への強い思いを抱いている。彼らは、故郷の風景、文化、そして人々との思い出を大切に語り継いでいる。
5.3. 記憶と未来
留別村は、日本の歴史と文化の一部である。その記憶を語り継ぎ、未来へと繋ぐことが重要である。
6. 結論
北海道択捉郡留別村は、かつて日本の最北端に位置し、豊かな自然と独自の文化を育んできた村であった。しかし、戦争とソ連占領によって、人々は故郷を奪われ、悲劇的な運命を辿った。
現在、留別村はロシアによって占領・実効支配されているが、領土問題の平和的な解決と、失われた故郷への帰還を望む声が、人々の間で強く根付いている。
留別村の記憶は、私たちにとって、歴史と平和の大切さを教えてくれる貴重な教訓である。
留別村についてのクイズ
留別村の面積はどれくらいですか?
留別村の面積は1,442.82km2であり、日本の村の中で最も広い面積を誇っています。この面積は東京都とほぼ同等で、留別村の地理的特性を示しています。かつてこの村は日本の最北端に位置し、その広大な土地を活かして、様々な経済活動が行われていました。しかし現在はロシアに占領され、実効支配下にあるため、法令上のみ存在する村となっています。アイヌ語の「ル・ペッ」に由来する名称は、かつてこの地を流れる川を指しているとされ、村の自然環境や文化への重要なつながりを持っています。
留別村はどのような地理的特徴を持っていますか?
留別村は地勢が平野部が多く、湖沼も発達しています。特に萌消湾や単冠湾といった天然の良港が存在し、漁業の中心地として発展してきました。また、ベルタルベ山や阿登佐岳といった活火山もそびえ立っており、これらの自然地形が留別村の豊かな自然環境を形成しています。地形の多様性は、村内で行われる漁業や農業など、さまざまな産業にとって必要な条件を提供しており、地域の生態系や経済活動に大きな影響を与えています。
留別村が成立したのはどの年ですか?
留別村は1923年4月1日に成立しました。この村の成立は、複数の村が合併した結果であり、当時日本の最北端に位置する重要な地域となっていました。歴史的には、1869年に北海道11国が置かれ、その後個々の村が設立されていく過程で、地域社会の発展が進められたことが背景にあります。合併により、留別村は一つの行政区画としての機能も持つようになり、これを基盤にさまざまな社会資源が構築されました。しかし、戦後のソ連による占領は、この村の運命を一変させることとなりました。
留別村で盛んに行われていた漁業は主に何を対象にしていましたか?
留別村では、漁業が重要な産業の一つであり、特にマス、サケ、タラ、マグロが主な漁獲対象でした。この地域の漁業活動は、漁港が整備されることで効率的に行われ、冷蔵船が活用されて漁獲物が根室に出荷される仕組みが整備されていました。また、村の北西岸では漁業が盛んであり、経済活動の柱として機能していました。漁業に加え、南東岸では採藻業も活発に行われており、コンブや千島海苔が採取されて地域経済を支える要素の一部を構成していました。
留別村の成立以前に設立された小学校はどれですか?
留別村の成立以前に設立された小学校の一つに「年萌小学校」があります。明治の時代には、地域の子どもたちの教育を目的とした学校が各所に設立されており、留別村の成立につながる地域振興において重要な役割を担っていました。年萌小学校は後に内保村の小学校などとともに、村の教育の基盤を支える存在となります。こうした教育機関は、村の文化や知識の継承にも寄与し、地域社会の発展に貢献していました。